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古典調律のもう一つの壁


古典調律の第1の壁は、まず優秀なピアニストが幼少のころから平均律での音感を身に付けるために、古典調律がただ狂った音程に聞こえてしまい、そこに感情移入することが困難になってしまうということです。

しかし、もう一つ重要な問題があります。
あらゆる技術的な要素が、理想を実現したと仮定しましょう。すなわち、あらゆるクラシック曲に対して学術的に「正しい音律」なるものが再発見され、そして楽曲ごとに自動で調律を切り替えられるグランドピアノが、誕生したと仮定します。そして子供のころから古典調律の英才教育を受けた天才ピアニストも同時に誕生したとしましょう。
そのとき、理想の音律での演奏会は実現されるのでしょうか・・・?
 
結論から言うとそれは「NO」だと思われます。その理由は、
「調律が切り替わるとき、演奏者も聴衆も大きな違和感を覚えてしまう」
という問題がどうやらあるようだからです。

もう少し具体的に言うと、
Aという曲にはキルンベルガー第1が理想的な調律法だとします。一方、Bという曲にはラモーがBestの音律だとします。すると、調律法がキルンベルガー第1→ラモーに切り替わるとき、あるいは逆にラモー→キルンベルガー第1に切り替わるときに、ひどい違和感を演奏者も聴衆も感じることになり、演奏会は台無しになってしまうのです。

つまり、「調律法を自由自在に切り替える」という技術は、現在の幅広いジャンルの曲から構成される演奏会プログラムを気持ちよくこなすためには、むしろ邪魔な存在だとさえいえます。

現在でも、その気になりさえすれば「複数のピアノにそれぞれ異なる調律を施したものを用意しておいて、コンサート中に必要に応じて使うピアノを代えることで音律を変えて演奏する」ということが可能であるにもかかわらず、世界的なコンクールでさえ、だれもそのようなことをしない理由の1つではないかと思われます。

ここで、古典調律を使う場合、「1つの調律法で1つの演奏会のすべての曲目がカバーできる必要がある」ということが最大のボトルネックになることがわかります。ショパン1人の作品に絞り込んでさえ曲によって最適な音律は数種類のグループに分かれます。演奏会ではその1つのグループしか演奏できないことになり、そのような偏った選曲が許容される演奏会が極めて稀であろうということは想像に難くありません。

では、結局のところ、平均律があらゆる場合においてBestということになるのでしょうか?

それはたとえば、ちょっと高級な店でピアノの生演奏をBGMにするような場合、平均律はニーズを満たすという点でBestかもしれません。あるいはあくまで「娯楽」として色々な音楽を楽しむイベントでもそれで良いでしょう。


無視できない大きな問題の一つとしては、クラシック曲の中には平均律ではどうにも理解不能なフレーズというものが少なからず存在し、しばしば誤った解釈に陥るということです。

ベタな例ですが、いくつか具体的に挙げてみましょう。

・モーツアルト キラキラ星変奏曲
 大半がハ長調、途中にハ短調が1回だけというこの曲は、平均律ではどうしようもなく退屈な曲に成り下がってしまいます。これをピアニストがどう対処するかといえば、退屈な曲と割り切ってずるずると演奏するか、リピート等をカットして退屈にならないよう切り詰めるか、あるいは過剰な演出を加えて退屈さをまぎらわそうとするかもしれません。
 古典調律(シュニットガーやラモーあたりの改良中全音律系の調律法)で演奏するなら、各部分がこの曲全体の中で担う役割というものが自ずと明確になり、曲は退屈にならず、自然とちょうどよい長さに聞こえるようになってきます。

・ショパン エチュード3番 ホ長調 「別れの曲」    
 中盤から後半にかけての展開は、平均律ではただただヒステリックな響きに聞こえてしまいます。その展開の必然性を平均律で理解することは困難です。「ときどきヒステリーを起こすショパンの曲」といわれる典型例でしょう。
 ラモーの音律で演奏すれば、それはけしてヒステリックな響きにならず、ショパンらしい自然な美しい流れになることがわかります。

・ショパン エチュード12番 ハ短調 「革命」     
 この曲のラストは、平均律ではどうにも、しりきれトンボに聞こえてしまいます。中途半端な終わり方ですが「練習曲だから」と言い訳していないでしょうか。
 ラモーの音律で演奏すれば、そのままでびしっと安定した終わり方に聞こえてきます。

・ショパン プレリュード第2番 イ短調  
 短い曲ですが、平均律ではどうしようもなく陰鬱で重苦しい曲に聞こえます。狂気さえ感じさせます。なぜこんな曲を2曲目にもってきたのか、平均律で説明することは困難です。
 ラモーの音律で演奏すると、この不協和音は全く違った雰囲気に聞こえます。陰鬱というよりはむしろユーモラスにさえ聞こえます。不協和音のうなりのリズムが、曲の構成要素として重要な意味を持っていることが初めてわかるでしょう。前後の曲とのつながりが自然なものになり、ジグソーパズルの1ピースのようにぴたっとおさまってくれます。


古典調律でのこれらの響きと解釈を理解したうえで、それを平均律での演奏に生かす、ということは、もしかすると可能なのかもしれません。だからこそ、世界の名だたるピアニストが平均律を使い続けるのでしょう。しかしそれは、古典調律を知らなくても良い、ということではけして無いのです。